【黒海】

-P3-







「私を知っている?神父様」



しばし無言で女から目を離せずにいた男に、
すでに目の前に迫った女は微笑んで問うた。


男は胸中で一度、十字をきってから答える。


「…さあ、存じません」



「神父さまが、嘘をついてもいいの?」



女は少し悲しげに、声を落して続けた。










「……それとも、忘れちゃった…?」











「忘れてなんか…!」











男は言ってすぐに後悔したが、
少し潤んだ女の瞳が微笑みに揺れると
なぜだか懐かしい、優しい気持ちになった。



「そうでしょう。私なんか、あんたを忘れられずにここまできたのよ?」



「…あなたはまだ、あの場所に?」



「まさか!この格好を見てよ。
あの場所からこのままここまで来ると思う!?」


「そうでしたね…それで、懺悔なさいますか?」


「あら、時間は過ぎたんじゃなかったのかしら?」








「時間は過ぎました」













「……これよりは、貴女のために」












男は女を知っていた。









すべてがモノクロームだった彼の地の野戦病院で、
そこにだけ実った果実のような女性。



それが彼女だった。





ずっと抑えてきたのに、口をついて出た台詞。




大戦前、男が腐るほど世の女性に吐いてきた悪魔の呪文。





やって来たのはやはり“魔”だった。




いまや贖罪にのみ生きる男を惑わす“魔性”だ。






「フフ…聖職者の台詞じゃないわね」


そんな男の心は知らず女は嬉しそうに一歩踏み出して、
男のすぐ横を追い抜き懺悔室に向かった。



通り抜けた女の香りに、
かつて左目があった場所がうずきだす。



男は思わず彼の地で女があててくれた黒い眼帯に手をやり、
残り香を反芻した。













忌まわしき






消毒と、







オレンジの香りを。










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