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「私を知っている?神父様」
しばし無言で女から目を離せずにいた男に、
すでに目の前に迫った女は微笑んで問うた。
男は胸中で一度、十字をきってから答える。
「…さあ、存じません」
「神父さまが、嘘をついてもいいの?」
女は少し悲しげに、声を落して続けた。
「……それとも、忘れちゃった…?」
「忘れてなんか…!」
男は言ってすぐに後悔したが、
少し潤んだ女の瞳が微笑みに揺れると
なぜだか懐かしい、優しい気持ちになった。
「そうでしょう。私なんか、あんたを忘れられずにここまできたのよ?」
「…あなたはまだ、あの場所に?」
「まさか!この格好を見てよ。
あの場所からこのままここまで来ると思う!?」
「そうでしたね…それで、懺悔なさいますか?」
「あら、時間は過ぎたんじゃなかったのかしら?」
「時間は過ぎました」
「……これよりは、貴女のために」
男は女を知っていた。
すべてがモノクロームだった彼の地の野戦病院で、
そこにだけ実った果実のような女性。
それが彼女だった。
ずっと抑えてきたのに、口をついて出た台詞。
大戦前、男が腐るほど世の女性に吐いてきた悪魔の呪文。
やって来たのはやはり“魔”だった。
いまや贖罪にのみ生きる男を惑わす“魔性”だ。
「フフ…聖職者の台詞じゃないわね」
そんな男の心は知らず女は嬉しそうに一歩踏み出して、
男のすぐ横を追い抜き懺悔室に向かった。
通り抜けた女の香りに、
かつて左目があった場所がうずきだす。
男は思わず彼の地で女があててくれた黒い眼帯に手をやり、
残り香を反芻した。
忌まわしき
消毒と、
オレンジの香りを。