【スティル・グリーン】
-P40-
「誰かそこにいるの?」
不意にかけられた言葉でおれは我にかえり、
あわてて涙をぬぐって声の方に目をやる。
すると明かりの落ちたキッチンの入口に、
逆光で影になった華奢なシルエットがあった。
「ボンソワール、レディ」
「サンジさん…」
おれは泣いていたことを気づかれないように、
挨拶をひとつだけしてたばこに火をつけた。
おれは今どんな顔をしているんだろう。
頼むからこっちにこないでくれよ。
だけどその影はおかまいなしにこちらに歩を進めた。
「泣いていたの…?」
おれは無駄になったたばこをシンクに放り投げて、
口の端を上げるだけの笑みをすでに目前に迫った影に向けた。
「君は?眠れないの?」
「ええ、なんだか目が冴えてしまって」
2本目のたばこに火をつけようと擦ったマッチに照らされた、
化粧を落としたアパレシタの顔は実際の年齢より幼く見えた。
「まゆげ、ないよ」
「うるさいわね」
「…そっちの方がいいよ」
こんな鼻声じゃ、
口説き文句も効果なしだな。
「…………私の部屋へ、くる?」
いや、そうでもなかったか。
* * *
アパレシタのご主人は海兵のお偉いさんで、
年はふたまわりも上だという。
イーストブルーのとある国の貴族の血をひくアパレシタとは、
いわゆる“政略結婚”だそうだ。
その証拠に結婚から1年半、2人が一緒にいた時間は、
全部合わせても1ヶ月にも満たないらしい。
だけど、さみしいことはなかったのよ?
幼いころからずっと一緒だったロクサーヌがいたし、
お金だけは不自由しなかったから、
ふたりで世界中のお洋服を買い集めて、
世界中の美味しいものを食べてまわったわ。
もちろんいちばん美味しかったのは、
今晩のディナーだけどね。
アパレシタはおれが泣いていたからだろうか、
はげますかのように色々な話を聞かせてくれた。
「主人は大きな意味で私を愛してくれていると思うわ」
「大きな意味?」
「その愛は、たくさんの方向へ向けられているみたいだから…」
「……アパレシタは、本当にさみしくないの?」
ご主人の話をするとき伏し目がちになることに気づいたおれは、
さみしいことはない、と言った彼女の言葉を確認するようにたずねた。
「そうね……まったく、と言ったら嘘になるかもしれないけど…」
そしてたくさん話したその締めくくりみたいに、
おれの髪をひとすじつかんで呟いた。
だけど、こんなことは初めてなのよ。
NEXT→
←BACK
TEXT TOP